夏休み中にはなんとか観ようと自分で勝手に決めてしまったので、最終日の本日義務のように鑑賞。
主人公青地と友人の中砂は旅先の宿で小稲という芸者に出会う。何ごとにも関心のなさそうな視線の青地に比べて、中砂は小稲に執心な様子だった。
旅の後しばらくして中砂は結婚するが、新妻の園は小稲に瓜二つで青地は驚く。所帯をもった中砂だが、生来の風来坊っぷりで家にはよりつかず、園は寂しさで気がおかしくなりかけている。やがて子供が生まれるが、園は悪性の風邪にかかりあっけなく死んでしまった。
残された赤ん坊のために乳母を雇ったと中砂がいうのだが、その乳母はあの芸者の小稲だった。小稲は自分たちは結婚したのだと言い張るのだが、中砂は乳母とお手伝いと芸者を兼ねた女を置いているだけだと笑う。
やがて中砂も死んでしまい、小稲は残された赤ん坊だけがこころの頼りのような気持ちで暮らしているようだ。
時々青地の家に訪ねてくる。ここに中砂の本が貸してあるはずだ。またしばらくしてたずねてくる。もう一冊ドイツ語の本があるはずだ。また来る。サラサーテ自身が演奏しているツィゴイネルワイゼンのレコードがあるはずだ。
なぜ本があることを知っているのだ。レコードのことを知っているのだ。トヨちゃんがお父様と話している会話を聞いたのです。
何年も前に死んだはずの中砂と、中砂の生前にはまだ赤ん坊だったトヨコが話しているのだという。そんなはずがあるものか。
まず映画全体の画像から受ける印象は、寺山修二の『田園に死す』を思い起こされるような、不安な美しさを持つ絵画的なものでした。鎌倉の切通しのシーンで大谷直子が笑うシーンなど恐ろしいほど美しかった。
最初の海岸のシーンでの群集の動きや、砂浜に埋まった盲目の芸人が殺しあうシーンなどもまるで赤テントの舞台を見ているような印象でした。めくらの一人が麿赤児だったからかもしれませんが。
青地の妻周子の描き方が好きではなかった。原作には登場してきたのだったかな。中砂と周子が関係を持っているのではないかと青地が疑っていくためにはあの自由奔放さが必要だったのかも知れないが、あんなにエキセントリックである必要もない。このキャラクターはちょっと残念でした。
園と小稲の二役を演ずる大谷直子は秀逸でした。顔も手も着物姿もすべてが美しかった。
特に中砂の持ち物を返してくれと玄関先の暗いところにたたずむ姿は原作の『サラサーテの盤』に書かれたシーンを忠実に再現できていました。ひっそりと、恐ろしく。
青地の藤田敏八は台詞回しがよかった。どこにもなににも感情がこもっていないように返事をしたりするところなどとてもよかった。
中砂は原田芳雄。この人は何を演じても原田芳雄になってしまってちょっと苦手です。
ただ、風来坊で女好きで自分勝手でずるい男という意味では原田芳雄さんの風貌はよく似合っていた。
原作が内田百間だということで長い間観なくては観なくてはと思っていた映画だったのですが、百鬼園先生のイメージとはちょっとかけ離れていました。この映画は鈴木清順の映画だと、そう割り切ってみたほうがいいようです。