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この手のネタはある程度まとまって読んだほうが面白さに拍車がかかってネタに無駄がないということは分かっているのですが、この感動を一刻でも早く皆様にお伝えしたくて更新いたします。
私の大好きなスーパーの見切り品コーナーで見つけました。
綾波レイちゃんたちを、開けたり、投げたり、揉んだり、つぶしたり、かき混ぜたり、されたのでしょうね。お気の毒に。
逆に言ったらこれ以外はいいのですか。
踏んだり、吸ったり、匂いを嗅いだり、添い寝したり、目隠ししてアイスを食べさせたり、などはしてもいいのですね。
いいのですねっ。
高校時代の友達が経営している「ささらプロダクション」。2年前に最初の映画作品『オオカミの護符』が作られ(この作品は後に文化庁から賞を受けました)昨日は第二弾映画の封切りがありました。
『うつし世の静寂(しじま)に』という作品です。暑い暑い真夏の上映会に行ってきましたよ。さて、今回はどんな作品なのでしょう。
前回の作品は小倉さんの実家に古くから張られていたオオカミの絵のついた護符の謎をほどいてゆくという作品としての大きな柱がありましたが、今回の作品はそういう具体的に目に見える柱ではなく、敢えて言うならば人々の”祈り”を全体の流れとした作りになっているようです。
全体は4つの風景から構成されていて、それは「念仏講」「巡り地蔵」「谷戸の風景」「初山獅子舞」と、多摩の地で古くから行われている風習や暮らしの手仕事などにクローズアップしたものです。
私がびっくりしたのは念仏講や巡り地蔵それから無尽講など、話では聞いたことのある風習がまだこの地で行われているということ。都市伝説ならぬ田舎伝説じゃなかったんだ念仏講!というくらいにカルチャーショックを受けました。
長いお数珠を念仏を唱えながら円座でぐるぐると手繰っている風景など、本当に今の川崎で行われていることなの?と、映画を観たあとでもちょっと信じられない気持ちでいます。映画みたい。。。いや、映画なんだけど、でもこういう映画じゃなくて、もっと別の。。。
講が終わると”なおらい”と云って参加者にもてなしが出るのですけれど、そのおかみさんがまた大変素敵な方で、「私はこういう農家にお嫁に来たかったんです。自分が活かせるのはそういうこと(モエル注:手仕事や野良仕事や料理や、そういう意味だと思います)でしかできないから。だから今は幸せです。」とニコニコしながらおっしゃるのです。
それから魅せられたのは初山獅子舞といって天狗が先導する獅子三匹による舞です。
この獅子舞を、今はなくなってしまった神社の跡地に奉納した映像がとてもよかった。神社がなくなった理由と云うのが明治政府による「神社合祀令」ということで、国策により祈りを奪われた庶民なんだけれども、風習は廃れることなくこうして残っていることに人の気持ちの力強さを感じました。
このお祭りは10月にあるそうなので、機会があれば観にいきたい。お獅子の舞もそうだけど、天狗の天晴れな舞を自分の目で観てみたいと強く思いました。
さて、私が映画全体を通して思ったことは一言で言えば「ギャップ」です。
小倉さんが最初の映画からずっと追いかけている地元の古くからの風習や暮らしやまつりごと。まず知らなかったことが非常に多くてそのこと自体に驚くのですが、では知った後にはどうするのかといえば、やはりその世界とは一線を隔して暮らし続ける自分がいるわけです。
たとえばお祭りひとつをとっても、ただ見ている分にはあぁいいな素敵だなと思うけど、そこに参加しようとまでは思わない。農家のお嫁さんの畑仕事なんかもいいなと思うけど、せいぜいベランダでシシトウを育てるのが手一杯です。
なにか始めてそれを続けさせる覚悟が私にはないのですね。もちろんなんでもかんでも古いものがいいものだと手放しで思うわけではありませんが、しかし、改めてあのお嫁さんの潔さにはカウンターパンチを食らった思いです。
でも、このギャップを感じたということに意味があるのではないか。全く知らないでいることと、知りながらもギャップを抱えて生きていくこととには大きな差があるのではないか。
そんな意味としても、小倉さんにはどんどんと新しい世界あいや古い世界か?私の知らない世界を見せていって欲しいと思うのであります。
映画のあとのトークショーでの小倉さんと由井監督(男前)。
小倉さん、由井さん、素敵な作品をありがとうございました。
次回作の構想もすでにあるらしいので楽しみにしておりますよ!
(日記タイトルの「人は分からないものに祈る」は、『うつし世の静寂に』を観た哲学者:内山節さんの言葉より。びんびんキました。)
『うつし世の静寂に』は今後たくさんの上映会を企画しているそうです。
興味を持った方はこちらをどうぞ。
去年の暮れにキアロのお母さんが亡くなったので、お仏壇が我が家にやってきました。
今日は盆の入り。
そうだ、今年はお仏壇もあるし、お義母さんの新盆でもあるし、ちゃんとやろう。
ちゃんとと言ってもお坊さんを呼んでお経を、なんてことはできないので、ごく一般的な迎え火に初挑戦しました。
昨日、スーパーでおがらとお花と果物とお菓子を買っておきました。
お仏壇をきれいに飾って、さて、オガラだ。これを焚いてご先祖をお迎えするんだよねたしか。
モエルの実家にはお仏壇がなくこういう手順を見たことがないので、恥ずかしながらなにをどうしたらいいのかよくわからないのです。
でもキアロの実家には、今うちに来ているお仏壇があったので、信心深いお義母さんがまめに行事を行っていたらしく、キアロがいろいろ教えてくれました。
まずはオガラを玄関先で焚きます。
地べたではないので直に焚くわけにはいかず、キアロ実家では金盥の上で焚いていたそうですが、我が家にはそんなコントの小道具のようなものがありません。
ちょっと考えた末に、お魚を焼くグリルのトレーの部分を出してきてその上でやることにしました。
まっちろけの枯れ枝のようなオガラですので、火を近づけたとたんにメラメラと燃えるのかと思っていたらさにあらず、なかなか火がめぐりません。
そうだ、空気だよ、『キャスト・アウェイ』ので島に取り残されたトム・ハンクスがやってたじゃん。
オガラを井桁のように組んで、その下に火をくぐらせるとうまい具合にメラメラときました。
その火をなんとなーく目で追ってご先祖をお迎えする儀式なのかと、私はそう思っていたら、キアロがやおら立ち上がって、はやくはやくと火を跨ぐのです。
「こうやって、三回くらい跨ぐの(ピョコピョコピョコ)」
「へぇ〜(ピョコピョコピョコ)、なんでこうやるの?」
「わかんない」
理由のよくわからない火跨ぎの儀式を夫婦二人して粛々と行い、無事(?)迎え火を執り行うことができました。
こういうのは調べればすぐに分かることなんだろうけれど、うちはよくわからないままやっていこうと思います。
昔からこうやっているからこうしているだけ、とただそれだけでいい。
そもそも、誕生日や結婚記念日やクリスマスや、そういう儀式めいたことをほとんどやらない我が家ですので、やること自体に意義があるのだ。これでいいのだ。
久しぶりに実家に遊びに行ったらお昼に餃子を作ってくれた。
私が作る餃子はかなり美味しいのだが(本気)それは母親が作っているのを見て覚えたレシピで、その大本のお母さんが作る餃子なのだから、それはもう美味しいに決まっている。
ところが、いつの間にか作り方が変わっていた。
以前はゴマ油を具に混ぜ込んでいたのだが、先日の手順だと焼き上がりの最後にビックリ水ならぬビックリ油の体でフライパンの中にぐるっと回しかけていた。
「ええっ!そこで入れるの!?」
「そうよ」
「前は違ったじゃん!」
「そうだっけ」
「具に入れてたよ」
「あんたよくそんなこと覚えているわね」
よく覚えているもなにも、だってそれが私にとっての基本だもん。三つ子の魂ではないけれど、子どもの頃に覚えたレシピを忘れるわけない。
その基本の手順を勝手に変えて!お母さんってば!もうっ!!!
と思ったけど、食べてみたら非常においしゅうございました。
私も今度からビックリ油方式にしよう〜っと。
いくつになってもお母さんが作ってくれたものが最高に美味しい。
自分が死ぬ前の最後の食事にはお母さんのご飯と味噌汁を食べたいと、本気でそう思います。
スーパーの商品表示というものは、どうしてあんなに間違っているのだろう。
よしんば間違ったとしても、品出しをしている途中で気がついてすぐに直せばいいのにと思うのだけれど、間違った表示は間違ったままずっと存在しているのですよね。
不思議。
だけどネタとしてつかえるので大変ありがたい物件なのでありますが。
緑のまめたぬき!
なにこのかわいい間違えかた!
なにをどう間違ったらまめたぬきなんて間違え方ができるの?
このひと天才?
よく見たら
まめきつねもあった。
もっとよく見たら
まめ豚汁うどんとか
まめ豚カレーうどん
なんてのもあって、もう訳がわかんなくなってきたんだけど一応写真だけは撮影して、そして、うちに帰り、この日記を久しぶりのネタでうはうは書こうと思い、いやまてよ、念のためとググって見たら、ほんとうにあったんだまめたぬきまめきつねまめ豚なんたらかんたら。
くそう。
でもせっかくなので載せました。
ケチでバカでものぐさ、それが私です。けっ